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むささび工房ブログ

如是姫(にょぜひめ)像のこと
– Statue of Nyoze Hime –

2019/03/22
 
如是姫像アップ
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 JR長野駅善行寺口(西口)のロータリに、美しい女性の像が置かれています。名前は「如是姫像」。さりげなく置いてあるのであまり気づかずに通り過ぎるのですが。よくよく見ると美しい姿です。

由来は後にしますが、ものの説明によれば、その麗しさは格別で、
『春の花に露を含み、青柳の風になびく如き、もれ出づる月の面影の如く、言葉では言うにいわれぬ美人』
とあります。
善光寺如来絵伝  口演 林 麻子(祖父江善光寺東海別院副住職夫人) より  (2019.3.22現在 リンクが切れてしまっています)

古今東西、美女の表現にはいろいろあるようです。
『もしクレオパトラの鼻がもう少し低かったなら、世界の歴史は変わっていただろう──。』これは17世紀フランスの哲学者、ブレーズ・パスカルの言葉とのこと。
あの楊貴妃についても、
『一笑ば六宮に顔色無し』(白楽天の長恨歌)、つまり、楊貴妃がひとたび笑ったら六宮に働く女官(多分何百人もいたでしょう)も全員真っ青 というようなことでしょうか。
それらに比べても如是姫の美しさは引けをとらないようですね。

夕刻のの是姫像

夕刻のの是姫像

この像の傍らに碑が設けられ、如是姫像についての説明があります。

原文をそのまま転写します。(以下、碑文より)

 [善光寺縁起]によると、昔、天竺(てんじく インド)の毘舎利国(びしゃりこく)に月蓋(がっかい)という長者がおり、掌中の玉として大変可愛がっていた一人娘の如是姫が、あるとき流行した悪疫にかかりどんな治療をしても治らなかった。
 日頃欲深く、不信心でお釈迦様が仏の心を授けようと訪れても、会おうともしなかった長者だが、娘の命を助けてくれと涙ながらにお釈迦様におすがりした。お釈迦様は西に向かい南無阿弥陀仏を唱えるよう諭され、長者は教えに従い一心に御名を唱えると、阿弥陀如来と弟子の観世音菩薩と勢至菩薩様が西の門の上に現れ光を放ち、その光が如是姫の枕元に届くと病気はすっかり治った。
 この像は、如是姫が病気の回復を感謝して善光寺如来に香花を捧げ礼讃している姿である。
                                    長野市

如是姫像の経緯

明治四十一年(一九0八年)十月
 善光寺境内の護摩堂(現在の経蔵)前に信者の寄進で作られた
 作者は竹内久一氏
 東京美術学校(現東京藝術大学)教授
昭和十一年(一九三六年)十二月
 善光寺御開帳を機に
 長野駅舎が仏閣型に改築され、
 その年の暮れに長野駅前広場に移された
昭和十九年(一九四四年)十月
 戦争中、金属類の拠出の布令に従い、
 如是姫像も台座を残して拠出された
昭和二十三年(一九四八年)十月
 信者の募金活動により、
 現在の如是姫像が再建された
 作者は佐々木大樹氏
 東京美術大学(現東京藝術大学)彫刻科教授
 佐々木氏は竹内久一氏の弟子でもある
昭和二十七年(二0一五年)三月
 長野駅前広場改修工事完成後、
 現在の形に再設置された
この説明板の石は、初代如是姫像の台を利用しました

以上が碑文による説明です。これを読んでも、「なぜ、長野駅前の如是姫像は善光寺の方角を向いて香花を捧げ礼讃しているのだろうか?」というナゾが残ります。

この疑問は善光寺の縁起を調べるとわかったのですが、とにかく長い長い年月にわたる出来事なので、読むのも大変です。沢山の資料がネット上にありますが、その中でも時系列でわかりやすくまとめられていた資料がありました。
善光寺本尊『一光三尊阿弥陀如来』の由来(縁起あらすじ)
  (2019.3.22現在 リンクが切れてしまっています)

とは言え、これでも読むのが大変なので、大筋を下記のように書き下してみました。

如是姫様の病が治り、強欲だった月蓋長者が信仰に帰依しお釈迦様と共に感謝をもって、阿弥陀如来と弟子の観世音菩薩と勢至菩薩様(三尊さま)をお迎えするところから始まります。

― 善光寺如来の出現 ―
 お釈迦様と月蓋長者は黄金の玉を鉢にまいて三尊さまを迎えました。このとき、お釈迦様と三尊様が光明を放つと、阿弥陀三尊生き写しの生身の姿(如来さま)が現れました。月蓋長者は大伽藍を建てて、国中の人々を救い始めた。(これが後の善光寺如来本尊につながります)

― 如来さまの旅 -
 如来さまはインドで1500年の間活動したあと、空中を飛んで百済の国(現在の韓国)に渡り1200年の間民衆に救いの道を説き続けました。その後、「日本へ行って民を救え」というお告げにより船に乗って日本へ渡ることとなりました。

― 如来さまの渡来 ―
 如来さまの乗った船は、欽明天皇13年(552年)、大阪(摂津の国)難波の港に着きました。如来さまと共に数々の経典や仏具も一緒に到着しました。これが我が国への仏教伝来とのことです。
欽明天皇は群臣の曽我稲目と物部尾興の二人に、外国から来たこの新しい信仰の扱いをどうしたらよいか相談しました。この二人は勢力争いをしていたので意見は相反し、如来さまもその争いに巻き込まれてしまいます。外来の信仰を嫌っていた物部側は、しばらくして国内に流行した疫病の原因の汚名を着せて、如来さまを祀っていた堂塔伽藍を焼き払い三尊の仏像を難波の堀に投げ込んでしまいました。

― 如来さまの信濃への旅 ―
 時は過ぎ、推古天皇十年(602年)、信濃の国からの旅人(本田善光とその子)が、用事を済まして都見物のあと郷へ帰る途中、難波の堀の水中から後光とともに、
「これ善光、恐れることはない。我は阿弥陀仏である。汝を待つこと久しい。我をつれて国へ帰れ。汝と一緒にいて民を救おう」
とのお告げを聞きます。
善行親子は如来さまを背負って信濃の国(麻績の里座光寺、現在の長野県飯田市)へ帰ります。阿弥陀仏を背負っての当時の長旅は相当の苦労があったと思います。善光の家は貧しいため如来さまを立派に安置する場所もなく、家の片隅の臼の上に安置した。如来さまのご利益が広まり、人々からの寄進も集まりました。これで善光はお御堂を建てて如来さまをお移ししたのですが、翌日にはもとの善光の家の片隅に戻ってしまうということが繰り返されました。しかたがないので善光は家をそのまま寺とすることとし、その後数十年に渡って礼拝し続けました。

― 現在の善光寺へ ―
その後、善光家の跡取りと皇極女帝のよみがえりの経緯が続くのですが長いので割愛します。そして皇極天皇元年(642年)に、如来さまには「われを当国水内郡芋井郷(今の長野)に移すべき」とのご託宣があり、現在の長野市の地に移され、皇極天皇により「善光寺」と名付けられたとのことです。

 細部で多少異なる諸説があるようですが、以上が大筋です。
長野駅前の如是姫様は、ご自身の病を治してくれた阿弥陀如来が長い時を経て善光寺に祀られていることを知っているのですね。だから暑い日も寒い日も風雪に耐えながら善光寺の方角を見て礼讃をしているということです。

 ところで、長野駅から善光寺へ行くには如是姫様が向いている方角へ行けばもちろん着くのですが、長野駅前からの正しい参道は、駅ロータリから如是姫様の左手側の横断歩道を渡り、そのまま百メートルほど歩いて末広町の交差点に出ます。そこを右に曲がって中央通りをまっすぐ進みます。ほぼ1.8kmの参道となります。

末広町交差点 

末広町交差点

 

 

 

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